カイロタイムズ119号(高解像度)
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(7)2019年11月18日発行 カイロタイムズ 119号 1902年に若いB.J.パーマー(以下、B.J.)が無資格医療で起訴されて、精神的サポートを必要としていたときに、D.D.パーマー(以下、D.D.)がダベンポートを去った少なくとも表面上の理由であったトーマス・ストアレイの神秘的な失踪に関する記事を、D.D.自身が1905年の広報誌カイロプラクターに載せている。その話は後に地元紙ダベンポート・デモクラット・アンド・リーダーで再び語られている。 ミネソタ州デュルース出身のストアレイは1901年にD.D.に師事した。D.D.が胸椎と腰椎に限ってアジャストメントを教えていた頃に、学生のストアレイが頚椎をアジャストするための木槌と楔を考案した。ストアレイはこの方法をダン・リースランドに教え、それをリースランドはミネソタ中に広めた。失踪する前にストアレイはデュルースで非常に大きく繁盛していた。 まもなくストアレイは再び新聞に出る。今度はアジャストを受けて約1時間後に患者が死亡したのだ。このときストアレイはロサンゼルスで開業しており、まだ木槌と楔のテクニックを使っていた。彼は正統でないテクニックを他にも使っていて、その中には拘束具か絞首索を用いて天井から吊るし、患者の体のあちらこちらに優しくとかでなく、重い木槌を用いる方法が含まれていた。またストアレイは約1年前に患者虐待の告発で逮捕されたが、罰金で済ませたことを同紙は報じた。その患者は、絞首索で首から宙吊りにされて大槌で背中を打たれたということであった。 サン・バナディーノ近郊の農夫ドメニック・プレマスは、「腎臓と肝臓」を長らく患っていて、友人の助言でストアレイに診てもらいに来たのだ。5回の治療を受けてその最後カイロプラクティックの歴史(第14回)カイロプラクティックの歴史(第14回)中 垣 光 市 DCトーマス・ストアレイのミステリーが1907年10月1日で、妻が付き添った。彼女は報道陣に言った。ストアレイが彼女の亭主の脊椎の間に重い木製の錐を挿し込み、それを重い木槌でガンガンと叩いて拷問し、また両手を背骨の上に置いて上下にジャンプして、腰のくびれた部分に全体重を投げ掛けた。その早朝には、プレマスは歩行に問題無く論理的に話し、たまに木槌の痛みを愚痴っていた。ストアレイと一緒に15分居て、1時間後にプレマスは、治療の期間に妻と泊まる宿屋のベッドに寝そべっていたが、「錐」が押し込まれた個所に両手を当てて苦痛の呻き声を出し始めた。妻の介抱する間もなくプレマスは痙攣状態になり、叫びながら背中の痛いところに爪を立てた。遂には、叫び声を上げてベッドから跳んで降りて、床を転がり回り、数秒の内に死亡した。 翌日、死因は結核による肺の出血と判明した。しかし、検死解剖の担当医は、被害者が受けた治療は「弱っている人には激し過ぎる」と確信した。同じ日にストアレイに対する医療条例違反で訴えた。逮捕を避けるためにストアレイはメキシコに逃亡し、1908年3月まで留まった。 B.J.はこの悲劇的な症例を用いてストアレイが使ったような英雄的な手段に伴う危険を描き出す。ストアレイの方法を強く非難する一方で、ストアレイを「人付き合いの良い、善人で、PSC卒業生」と評した。彼が就学した当時は学校が「頚椎サブラクセーションをアジャストする方法論を未だ明瞭にしていなかった」故に木槌と楔でアジャストする方法を考え出したのだ。 医療条例違反での逮捕を避けて1908年3月までメキシコへ逃亡した件についてどのようになったか定かではないが、ストアレイはカリフォルニア州で教育と臨床に関わっていた。彼の患者ですぐに彼の生徒になった者たちの一人がチャールズ・ケイルであり、ロサンゼルスカレッジオブカイロプラクティック(LACC)を1911年に設立した。 もちろん、競合校の出現はLACCの設立を待つまでもなかった。実際は競合校の乱立が妥当な表現であろうが、ダベンポートに戻って詳しく見てみよう。そしてサンタバーバラでD.D.に合流したオークリー・スミスとミノラ・パックスソンは、D.D.がサンタバーバラを去った後にどうなるのかも探ってみよう。 続きは次号のお楽しみに。 100年以上も前に書かれ、今もなお世界的ベストセラーとして多くの成功者たちのバイブルとして知られる、ナポレオン・ヒル著『Think and Grow Rich:富める者になるために考え・成長しよう!』はボクの愛読書の1つです。今まで英語の原著は何度も読んできたのですが、日本語では恥ずかしながら一度も読んだことがなかったので、去年からスタッフ教育と自分の日本語の勉強も兼ね、和訳版:「思考は現実化する」(きこ書房)を、早朝診療前のミーティングの際にボクのCA(カイロプラクティック・アシスタント)と一緒に読んでいます。 ナポレオン・ヒル博士は、生涯カイロプラクティック・ケアを受け続け、85歳になった時も「まるで40代の体だ!」と驚かれたほどエネルギッシュで、「私の健康維持のため、週一回のカイロプラクティック・アジャストメントは絶対に欠かせない。」と断言していました。また同書の中でも、第11章「無料の講演」(381ページ)で、パーマー大学にて講演したことや、B.J.パーマーとの感動的出会いやそれにまつわるエピソードを紹介するなど、カイロプラクティックのよきサポーターでもありました。 ヒル博士が25年に及ぶ歳月を費やし、体系化した「成功するための17の原則」の中で、ボクが一番大切にしているのが、「Going Extra Miles」です。これは、「報酬以上の仕事をする」という鉄則のことで、診療やビジネス上での長年の自分の課題でもあります。Vol.23 ガンステッドも、まさに「ゴーイング・エキストラ・マイルズ」の人でした。 Dr.ジョン・コックス著「In the Footsteps of Doctor “G”」(10ページ)には、「彼(ガンステッド)の生きる目的は、できるだけ一人でも多くの患者を診ること、そして可能な限り最高のカイロプラクティック・ケアを提供することだった。そのため、私生活での付き合いや地元のイベントなどには参加できる暇はなかった。常に働きっぱなしだったのだ。(朝7時〜夜12時までクリニックでそのあとは明朝4時まで往診)金銭的な裕福さとライフスタイルの違い:住んでいる家や乗っているクルマ(当時最新のキャデラック)等、地域の人々の中には、ガンステッド夫妻を妬んでよそ者扱いし、「あの夫婦は地域に関わる気がまるGoing Extra Miles…(何マイルか余分に行ってやれ!)江川 哲也DCでない!」とまで批判する者もいた。では、Dr. Gとは本当はどんな男だったのか? 彼は、遠方からやってくる多くの患者達を大切にし、カイロプラクティックに対する熱い思いを持ち続け、巨大なクリニックの経営維持のために常に必死であった。ただ、その事実を知り得る者は地域にはほとんどいなかったのだ。その熱意と献身的なその姿を一番よく理解していたのは、彼の患者として通い続けた人々だけだった。」とあります。 巨匠・ガンステッドに憧れる多くの人達の間で、「彼の技術を習得すれば、良い臨床結果が出せ、成功できる!」というスローガンをよく耳にします。Dr. Gの残した理論やメソッドの有効性を真剣に学び、明日の成功を目指し沢山の人がセミナー等のイベントに頻繁に参加しています。これは素晴らしいことですが、ナポレオン・ヒルが解明した成功の黄金律によると、技術にのみフォーカスしているのでは、Dr. Gのようなレジェンドには、どうやらなれないようです。より高い意識と目的を持ち、「この手を通じて奇跡を起こせる!」という揺るぎない確信、それ以上に自分の日々の現場で目の前の一人一人に対し、「ゴーイング・エキストラ・マイルズ」できているか? 一人でも多くの患者達にどれだけ自らの時間とエネルギーを献身的に与え続けられるか? この内面的部分こそが重要で、技術の進化や新しい発見もそれに伴って得られるものです。このような目に見えないことこそが、カイロプラクティック・レジェンドになるための必須条件なのではないかと思います。しせ犬一般社団法人日本姿勢検定協会Japan Posture Aptitude Testing Association骨盤について深く学んでみる特別冊子Posture Prociency Test姿勢についての正しい知識は姿勢検定で!級無料web受験実施中!!!姿勢検定5『骨盤について深く学んでみる』マイページ登録でダウンロードできます。無料プレゼント配布中!特別冊子今ならさらに、今すぐ受験!!日本姿勢検定協会は、全国検定振興機構に加盟しております。URL:http://www.sisei.or.jp一般社団法人日本姿勢検定協会Japan Posture Aptitude Testing AssociationQRコードから新規登録フォームへ無料期間は予告なく終了する場合があります。公式サイトに告知いたしますので、あらかじめご了承ください。

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